記事のタイトルを見た瞬間、私は「よし、全力で反対してやろう」と拳を握りしめたのである。というのも、タイトルからして“スポーツで競うことの弊害”みたいな、いかにも論争系の記事だろうと早合点したからである。脳内では、すでに「強さを求めないスポーツなんて、ぬるま湯だ!」と反論原稿まで準備を始めていたほどである。
しかし、読み始めて10秒で私の脳内編集会議は中止になった。内容はまったく予想外で、弱小チームが廃止されるどころか、むしろ 100年以上も存続できた理由 を分析した記事だったのである。まさかの展開である。私は心の中で「反対意見、解散!」と叫んだ。
記事をまとめると、「チームの存在意義は勝敗よりも“人間関係を育む場”として機能してきたから、長く続いたのだ」という趣旨であった。スポーツというと、つい“強くなければ存在価値がないのでは”と勘違いしがちだが、意外にも「勝ち負けより、人間関係の円滑化」という、人事部が歓喜しそうな答えがそこにあったのである。
“長く存続するチームを作る”という視点に立つと、ときには「チームが強くあること」の優先度は下がることもあるのだろう。これは、カレーを作るときに「辛さ」よりも「家庭団らん」が大事、みたいな話に近い。辛さ特化で行くと一部の人しか食べられなくなるが、みんなで食卓を囲むことを目的にすると、辛さは二の次になる。スポーツチームも同じで、目的が変われば大切にするものも変わるのだろう(変な例えかもしれないが)。
目的によって優先順位を変えることは、世の中ではよくある。たとえば、旅行に行くときも「観光重視」ならスケジュールを詰め込むが、「癒し目的」なら温泉につかって終わる。財布の中身が心許ないときは「節約重視」になるし、ボーナスが出た日は「豪遊優先」に切り替わる。人間とはそういう柔軟な生き物である。
だから、弱小チームが強さとは別の価値で100年続いたことも、ある意味で当然なのかもしれない。勝利という一点突破の美学も良いが、ゆるやかな仲間づくりという価値もまた捨てがたい。どちらが良い悪いではない。目的が違えば方針も違う、それだけの話である。
まあ、それはそれでよいのかもしれない。スポーツ界にも、人生にも、そして私の読解力にも、柔らかい視点は必要であると感じた次第である。
参考情報
2025/11/30 日本経済新聞:NIKKEITheSTYLE――スポーツに強さは必須か(文化時評)


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